コラム〔山本編〕
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vol.11 国家、家族、男女、いま共生を考える
作  山本 洋左右
世紀の始まり、世紀末の始まり?

昨年末から、4ヶ月近く考えがまとまらずに居た。
どうも何かがズレ始めていると感じてはいたが、
それが何で、何故そうなって来たのかがまとまらなかった。
先頃、台湾に行き友人たちとあれこれ話すうちに、
日本で見えなかったものが少しだけ見えてきた。
結論ではないが、いま論じるべき課題を提起する。
テーマは、「共生」である。

中国人、韓国人との共生

多くの友人から、同じような質問を受けた。
"韓国や中国のあの反日デモは、何なの?"
この質問の裏には、
1  いきなり過激になる理由が、分からない
2  日本は、過去を謝罪したではないか
3  やっぱり中国、韓国は、好きになれない。
4  何で、日本は、怒らないの?
と言った感情が見え隠れする。
本当は、自然との共生や男女間の共生、社会との共生を
論じようと思ったが、ここでは隣人、隣国との共生を
考えてみる。

国境線は、仲の悪い証

国家間のことを考えるとき、私は、まず国境を思い浮かべる。
隣り合う民族が、共生可能なら国境は不要である。
しかし、人間は言語、宗教、慣習、文化の相違を
乗り越える事が出来ず、常に隣の民族を最も警戒してきた。
その警戒心や猜疑心を抱いたまま隣り合う民族が、戦争を
しない為の約束が国境線なのである。
従って、世界中で隣国同士、仲の良い国などないのである。
例えると、ドイツとフランスの国境地帯のアルザス、ロレーヌの住民は、
二度の世界大戦の間、戦況によってドイツ人にされたり、
フランス人にされたりした。
国境線が、人間の運命を左右したのである。
しかし、それぞれのアイデンティティを変えられなかったのは、当然の事だった。
ドイツとフランスが共生を目指し、国境を廃止するまで半世紀以上を要し、
それを可能にする為には、EUと言う安全保障が不可欠だった。

目を日本の周辺に転じてみよう。
韓国も台湾もかつては、日本と言う国境の内部に取り込まれ、
そこに住む人々は、日本人としての運命を強要された。
それでは、韓国に過激な反日運動があり、台湾にはそれほど烈しい反日運動が無かったのは、何故か?

統治と併合、日本後の苦難

台湾は日清戦争後、日本の統治下に置かれ、韓国は、
日露戦争語に、併合された。
日本は、両方の土地や資源を手に入れ富国強兵を図った。
その一方で、本土との格差をなくすため、帝大や鉄道、ダムなどの
インフラ投資も行った。
しかし、韓国人の立場に立てば、そのインフラは
日本人への同化政策であり、民族のアイデンティティの抹殺に映る。
文化や仏教を日本に伝えたのは自分たちで、歴史は日本より長いと言う
優越意識を持つ彼らにとって、併合は屈辱だった。
幾度と無く反日独立運動が起き、その度に武力で鎮圧された。
彼らの感情を知り、理解しない限り、日本人と韓国人の真の対話は
始まらないだろう。なぜなら、韓国は、屈辱の歴史をしっかりと教え継いでいる
のだから。
台湾でも反日運動はあり、やはり武力によって鎮圧された。
霧社事件が大規模な例として知られているが、小規模な
反日運動も多かった。

敗戦後、韓国は独立を回復し、台湾は、蒋介石の国民党の支配下に入った。
韓国と台湾の日本に対する意識は、ここから大きく違ってくる。
韓国は、朝鮮戦争で焦土と化し、祖国は、冷戦の生贄のように
分断された。敗戦国の日本は、朝鮮特需で復興の土台を築いた。
韓国人から見れば、日本は再び韓国人の犠牲で潤ったのである。
韓国は、1964年まで日本と国交を正常化しなかった。
一方の台湾は、再び中華圏に復帰した。
しかし、蒋介石の代理人の陳儀は、台湾に乗り込んだ1945年からの2年間
台湾全土から富を収奪し、抗議する台湾人を殺戮した。
この蛮行に目覚めた台湾人は、「犬が去って豚が来た」と表現した。
犬は、日本であり、豚は、中国を指す。
その2年後の1949年、国共内戦に敗れた蒋介石と国民党の残党が、
台湾に逃れ、中華民国を名乗り権力の座に居座った。
彼らは、大陸反抗を最優先に台湾人のあらゆる権利を抑圧し、
時には、白色テロと呼ばれる政治テロで反対派の台湾人政治家や、
言論人を暗殺した。
この為、日本時代に教育を受けた世代を中心に
"日本時代の方がましだった。" "我々と中国人は違う"と言う意識が
台湾に広がったのである。
日本は、1972年まで台湾と国交を結んでいた。

今、韓国や中国で起きている事は、これら過去の延長である。
まず、歴史を紐解いて欲しい。
そうすれば、あのデモの背景とそれを企む権力の意図が見えてくる筈だ。