コラム〔山本編〕
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vol.13  中国の対日戦略とは
作  山本 洋左右

これから記す事は、数年前に中国の朋友が東京で語った内容である。
内容を私なりに検証して、ほぼ間違いないと思っているので、
現況に鑑み紹介する。

日本の政治大国化を阻止

中国共産党は1972年、日本と国交回復するに当たり、
日本を二度と政治大国化させない事を意思決定した。
その後、76年に文化大革命を収拾すると、
平和条約を締結して日本から経済援助を引き出す事に
成功した。この援助は、国民には知らされず、
一部の機関や関係者には、実質的な賠償と説明された。
その翌年の79年、復権したケ小平が、軍との折り合いをつける為に
国境侵犯が目に余ると言う言いがかりをつけて、
30万の兵力で突如、ベトナムに侵攻した。
この中越戦争は、国際的な非難を浴び、東南アジアに於ける
中国の威信は、地に墜ちた。
逆に日本は、80年に入るとGNP世界2位の経済大国に成長し
東南アジアは、日本の経済圏に組み込まれようとしていた。

戦争カード

危機感を抱いた共産党政治局は、日本の政治大国化を阻止する為の
方法として、経済大国から軍事大国に進むと訴えて、華僑ネットワークを通じ戦禍に遭った東南アジアの注意を喚起した。
その一方、国内では情報統制で、中国に対する国際的な非難は
知られなかったものの、文化大革命の大失敗で共産党に対する不信感は
頂点に達していた。
ケ小平達は、共産党に対する求心力の回復を迫られていた。
それが出来なければ、軍や保守派によって失脚されるのは明らかだった。そこで考え出されたのが、日本軍国主義の記憶を国民に思い起こさせる事だった。象徴となったのが、南京虐殺記念館の建立である。
開館は85年、抗日戦争勝利40周年の節目の年だった。
この年、日本は中曽根首相が靖国神社を公式参拝して大騒ぎとなったが
記念館のことは、国民の関心事とはならなかった。
一方、中国が靖国参拝を大いに利用したのは当然だった。
この直後、交換留学生計画が始まり、中国は多数のエリート候補を
日本に派遣した。この当時の留学生は、中国の若き頭脳集団だったが、その中には共青団(共産主義青年団)のメンバーも多く
彼らは、日本で様々な知識や技術を学ぶ一方で日本の世論や情報を
国に報告し続けた。今も、親日を装い大学教授や評論家の肩書きで何人もの共青団がマスコミに登場している。

指導要領に書かれている事

89年、共青団出身のリーダー胡耀邦が死去した。
追悼のため、天安門広場に集まった群衆は、党の主導権を握った
保守派に対する怒りを爆発させ、自由と民主を求める声が
北京の夜空を引き裂いた。中華人民共和国が成立して40年、自由を奪われて来た人民の忍耐が限界に達した瞬間だった。
またしても窮地に陥ったケ小平は、人民の要求を暴乱として武力で鎮圧し
上海で日和見な態度を取っていた江沢民を党総書記に据え院政を敷いた。保守派と長老しか居なくなった指導部は、再び党の求心力の回復に
乗り出した。94年、党中央委員会は、「愛国主義教育」の導入を決定し小学校から高校まで徹底した思想教育が行われる事となった。
教育の核心として、指導要領には、次のように書かれている。

 1 中学では、日本軍の残虐性を骨の髄まで染み込ませよ
 2 高校では、共産党の正当性を徹底周知させよ

更に、各地に建てた抗日記念館での学習を求めた。
それまで、各地の記念館は、閑散としていた。

江沢民が、訪日の際執拗に謝罪を迫ったのには、ある理由がある。
彼は、親を日本軍に殺された為、日本を許さなかったのだとの見方があるが、実は、日本軍占領下の南京大学に一時在学していたと言う噂があり、それを否定するためにああいう行動に出たと言う。

これが、我が朋友が離日前に、寿司を食べながら語った話である。
最後に、付け加えておきたい事がある。
それは、日本に居る多くの中国人が、今度のデモを、
中国政府がやらせていると見て怒り、日本を支持していることだ。
彼らは、ネットやメールで本国の家族や仲間に日本の姿を伝え、
デモ隊の行動を恥知らずで中国を貶めたと批判している。
そして、今回のきっかけは、日本の国連安保理常任理事国入りを
阻止するために政府が共青団を使ってやらせた事だとみている。
中国で自発的なデモなど絶対にありえない。
それが、出来るのなら、国民に選挙権を与えずに55年も権力を
握り続けている共産党打倒のデモが真っ先に起こる筈である。
日本に居る中国人の心情にご理解を賜りたい。